一時帰宅中 ―乳がん転移との戦い宣言―

 久々の更新です。
 6月28日にER(救急治療室)に入ってから、45日目の8月11日、やっと体に入っていた異物(ドレーン)から解放され、現在一時帰宅中。
 長いが、この1ヶ月半のあらましを記録しておく。
 前回のエントリーを書いた時点で、自分は乳がんが肺に転移したから気胸になったのだろうと予想はしていた。で、ER行きになる直前、既に右肺の完全虚脱(完全に潰れている状態)しているだろう体の状態で、乳腺クリニックに行って、「胸膜への転移」を告げられた。造影剤CT(短期入院した6月の時点)のCDを主治医がクリックしていくと、いくつもの白い病変が映しだされた。笑っちゃうぐらい、結構な量ではないか。
 母と一緒に大学病院にタクシーで駆けつけ、車いすを借り、お腹が空いたからと病院内のレストランで昼食を食べていた時、館内放送で名前が呼ばれた。個人情報保護の観点から全館に個人名がアナウンスされることはないと、壁にポスターが貼ってあったじゃないか?と(苦笑)。自分の名前が呼ばれたことにびっくりして、気管支に溜まっているのにそれまで出てこなかった痰が少し出て、医者に見せようとナプキンに包む。母が押す車いすで内科に戻ると、酸素チューブを付けられ、医者と看護師に囲まれながら「救急部」と書かれた部屋へ連れられて行った。
 あれから、7週間、ずっと入院していた。ERで行われた胸腔ドレナージ(胸腔内に空気が溜まらないようにドレーンで外に出す方法)で経過観察しても肺の戻りが悪いからと(実際はERで大量放出した痰も同時に観察対象だったと思う)、5日目に内科から外科に移され、10日目に胸腔鏡下手術。手術しても空気漏れが続き、しまいには、ドレーンを入れているのに再び気胸が発症し、手術後2週間後に今度は癒着術(胸腔内に接着剤を流しいれ穴を塞ぐ方法)を行うことに。胸腔内で化学炎症を起こさせているから痛みと熱が出始めているのに、横になろうとすると呼吸苦。気胸じゃない左肺に胸水が溜まり続けているとは前日のインフォームド・コンセントの時に告げられていたが、一晩でまた増えていたようで、横になろうとすると呼吸ができなくなるのだ(水がペットボトルに半分入っている状態を横にしてみてください)。「先生、苦しい」と訴え、夜、酸素チューブを付けてもらい、(右肺だけでなく)左肺にもドレーンを入れる処置が取られ、一気に1L以上の水が放出(真っ赤っかでした・・・)。前日夜に「胸水が溜まるとは、私はかなり末期!?」とかなりショックを受けていたのだが、呼吸苦の前では、「普通に呼吸ができることが幸せ」となる。実際は酸素チューブを付けられているのだけれど、癒着での痛みや熱で苦しんでいる身でありながら、夜9時ごろ顔を見に来た外科医に「先生、本当に幸せ」と笑顔で眠りのあいさつ。左右の肺にドレーンを入れられ、心電図をつけられ、尿カテーテルを入れられ、それでも人は『幸せ』と感じるのだ。
 1週間続いた熱が収まり、私としても呼吸が楽になっているから大分よくなっていると自信を持っていた。が、癒着して9日目に「左の水は収まっているけど、右の方に水が溜まっている。それが、今入っている管じゃないところに」と言われ、右に新しい管を入れられた後に古い管を抜かれ・・・。「気胸は収まっています」という、なかなか聞くことができなかった言葉も聞いたのがこの日か。これが7月31日。いや、この処置が施される前にも、管を若干動かし、水を抜いてもらっていたっけ。余りにも悪いニュースしかもらえないものだから、細かい記録(メモ)を書く気にもなれなかった・・・。
 この時点で、私の場合は転移治療はこの病院でやっていかないとまずいかもと思い始めた。気胸が治ったら、今までのクリニックで抗がん剤治療をしていきたいと思っていたのだが、なにせレントゲンなどもないクリニック。ここまでの1ヶ月の展開を考えると、また気胸の経過観察で大学病院に通院するとなると、二つを自分の采配で体調・スケジュール管理するのは大変だと実感し、クリニックに電話し、転移治療を転院して行いたいことを伝えた。週末を挟んだ2日後、夕方に左のドレーンを抜いてもらった。クリニックの主治医は、左も癒着術を行ってもらえと言っていたが(胸水対策でも気胸と同じ癒着術が取られる)、外科医は水が溜まらない状態なんだから抜くという方針、私としては、もうこれ以上苦しいのは『心が折れそう』なくらい受け入れがたいことだった。だから、「抜いちゃおう」と外科医が言ったときには、大泣き。「さっきまで子どもたちがいたんだけど、もう退院できないんじゃないか、日常に戻れないんじゃないかと思っていて・・・」と。先生の前でも泣いて、ドレーンが取れ、酸素チューブも取れ、身軽になって病室に残された私を気遣って、看護師が来て、一緒に嬉し泣きを。自分がもしかして近いうちに退院できるのでは?と一気に前向きになれた。その2時間後の夜7時ごろ大学病院の乳腺外科医が「頼まれちゃったよ」と笑顔で病室を覗いてくれた。クリニックの主治医と大学病院の先生が懇意の間柄で、電話かメールで私に使えそうな抗がん剤を検討していてくれた。「じゃ、これから全身チェックを始めるから」と、その後1週間の予定が組まれた。骨シンチのために、ドレーンは抜かないけれど、トロッカーと呼ばれる箱からは外されたことで点滴棒から解放され、この日、入院して初めて自分でシャンプーができた。翌日は、大学病院そばの花火大会を、駐車場に出て家族と一緒に楽しんだ。入院して42日目で初めて外の空気を吸った。そして入院して45日目の4日前、やっと右のドレーンを抜いてもらって、体内の異物から解放された。
 1ヶ月半、当たり前だが体だけが大変だったわけではない。ERで体験した「(痰で)死ぬのでは?」という恐怖、「Nちゃんが小学校入学まで私は生きていられるのだろうか?」という将来への悲観、1ヶ月間全くいいニュースがなく「このまま退院できないのでは」という恐怖心を経験した。そして、左のドレーンを抜いてもらってから、一気に明るくなった。ふと気付くと、「私、かなり強くなった?」と思うくらい、明るくなっている。
 右ドレーンが抜けてから、なかなか乳腺外科医に会えなく、3泊の外泊が許可された。明日の夜、乳腺外科医と今後の治療の話をする。既に、AT療法という抗がん剤は決定している。「肺は命取りだから」と、ガツンと癌を叩かないといけないのだ。2年前にやったより副作用がきついかもしれない。でも、やらないとそれこそNちゃんの小学校の入学式に出られないかもしれないと思う(医者から言われたわけでない)から耐え抜きたい。
 一時帰宅したことで、私の実家に行っていた子どもたちを急遽兄と母が送り届けてくれた。私のER行きで、夫が完全帰任することが決定し、やっと4人が揃った。まだ夫の帰国祝いもしていないからと、昨日の晩は、2階3階の家族と総勢9人ですき焼き屋に行った。私の完全な退院が決まったわけでないけれど、胸水がこのまま収まっていれば、近いうちに退院できるのではと思っている。今まで期待しては裏切られる結果ばかり受け取っていたから、あまり期待はしたくないのだが、今回は期待通りになると信じている。
 長期入院していると、心の管理が大変。大部屋だと、周りが具合が悪くなっていくと、こちらまで気分が落ち込んでしまう。でも、周りはほとんどが癌患者。外科の他に泌尿器科、整形外科の患者がいる病棟なので、様々な病気の人がいる。心の管理が大変なのは大変だが、自分だけが大変じゃないともわかった。とにかく呼吸さえ確保できれば、人は生きていける、癌ではそうすぐには人は死なないともわかった。
 これが私がこの1ヶ月半に経験したこと。明日から次のステージに進む。