このブログについて

再び妹です。

姉のお通夜、告別式にはたくさんの方が来て下さいました。
この場を借りてお礼を申し上げます。
また、コメントをしてくださった方、ありがとうございます。

親密な付き合いをしていた方がたくさんいますので、姉の最期をお話したいと思います。


姉は、前日は精力的に動いたようです。予定になかったのに、お願いをして、お風呂に入り、髪の毛を洗ったり、また、退院へ向けて歩行訓練もしたようです。そして、娘のNちゃんと楽しくおしゃべりし、自宅で採れたイチゴを一緒に食べたと聞いています。


そして21日、Twitterでの交流がある方はご存知でしょうが、その日もつぶやいています。そして、母や兄とメールのやりとりもして、兄へは「今日は何時頃来る?」と返事をしていました。


亡くなる直前まで「生きる」つもりでいました。

私は、13時頃病院につきました。その時は本当に苦しそうでしたが、その後に息子のS吾に握られた手を握り返して、「お母さん、また頑張ったよ」と言葉を交わしていたのです。


そして少し呼吸が落ち着いてきたように見えました。そのため、以前ほどの体力は無いことは承知していましたが、また今度も乗り越えると信じていました。


しかしその予想は外れてしまいました。


家族、そして母、兄、私が見守る中、静かに息を引き取りました。
あとから聞いたところによると、苦しさのピークは11時頃だったとのこと。


私が聞いた最期の言葉は、「私は幸せだ〜」でした。


姉は少し前から頻繁に「幸せ」を口に出すようになりました。食べ物をおいしく食べられた時や、生きていること、些細と思われるようなことにも本当に幸せを感じると話していました。


ERに入るたびに復活し、毎回今までに無い痛みと話しながら、乗り越えてきました。がんを再発してから亡くなるまで本当に痛みと戦いながら走り続けたと思います。


どちらかというと、「まあいいか」と多少不満な状況だけれどあきらめて状況を変えられない自分を受け入れるタイプだったと思います。しかし、がんを発病し、命に限りが見えた時からの姉は、「まあいいか」と言っていた人とは別人になっていました。


姉は、乳がんと診断された時、「無知だった」と後悔しました。その後、会う人会う人に、自分の病気を隠すことなく告白し、検診を受けることを勧めていました。自分のような「無知」な人が悲しい思いをしないようにと。


もし、成人女性で、まだ検診を受けていない方がいましたら、ぜひ受けてくださいね。姉は、本当に最期まで人のことも心配する人でした。


そして、念願の論文が、共著という形で6月中旬に刊行されます。
姉は、論文を共著の形で提出したことを「こんな幸せない」と話していました。
その仲間には今も本当にお世話になっています。


そしてこのブログは、姉と、子どもたちが大きくなって母のことを知りたくなった時のために本にして取っておくことにしようと話しあいました。


このブログは、もうしばらくこのままの状態にしておきます。
姉の代行として妹がこのブログ、mixiTwitterの管理人になります。