術後1年!

 思えば、ちょうど1年前に退院したのだ。3泊4日の入院。あまりにもあっという間だったので、特に日記を書くということもなかったので、記憶のみで「過去日記」を書いてみましょうか(爆)。イマサラ感もあるけど、今書かなかったら、多分何も記録に残さないと思うから・・・(苦笑)。
長い長い1日―2008年8月19日 
 入院は9時ごろだったか。Nちゃんを通常通り保育園に送ってから、自宅を出た。自宅から歩いて10分くらいの病院だったため、私は徒歩、荷物持ちの夫とS吾は自転車で。入院手続きをしてから、2人部屋へ案内された。といっても、1人で使用。前日帰国したばかりの夫がかなり疲れていたので、点滴を刺してもらってからは、ベッドの上は夫とS吾に譲り渡す。前日夜から絶食で、朝はヘロヘロだったが、点滴し始めたら、徐々に元気になった。クリニックの看護師Aさんが、クリニックの診察開始前に立ち寄る。ベッドにいるのが夫と子どもだったため「あれ?私の患者さんは〜?」って、大笑いで。手術開始時にまた来る、と。事前に説明を受けたように2時に手術室に入室ということで、夫には「1時頃に来て」と伝え、S吾とサイクリングに行ってもらった。3ヶ月半ぶりの帰国のため、手術の前後以外は子どもとの時間に。小学生のお子さんがいる(私より)若い看護師さんに「乳がん検診受けてる?」なんて突っ込みつつ、術後の動きを聞く。術後は実家の母と夫に説明を聞いてもらうつもりだったのだが、その際に切除物を見せてもらえるということで、急いで夫の携帯に「一眼レフ(カメラ)を持って来て!」とメール。自分で自分のブツを見たかったのだ。まあ、夫は携帯をチェックすることなく、1時過ぎに病室に現れたので、「なんでメールチェックしないのー!」と文句を。実家の母と妹も来てくれ、おしゃべり。私と夫とS吾は、普段通りで、何も緊張感なし・・・。手術室には歩いて。見送る夫とS吾と母と妹に「バイバイ、行ってきまーす!」と。この時点でも緊張感なし。初めての手術室・・・無機質な部屋。帽子だけは脱がされたから、つるっ禿状態で、手術台に乗っていた。何だか患者受けしなさそうな“病院側の担当医”が看護師にいろいろ指示していた。いろいろ記憶しておこうと様子を観察していた時に、クリニックの主治医が入室。「どう調子は?」なんて、いつもの飄々とした語り口で様子を聞かれ、「ここで面白いことを言おう」と思っているうちに麻酔が入り(点滴から?)、頭がぐるんぐるんとし始め「あー、ひどい眩暈がしているって言わなくちゃ」と思い始めたところで、次に目覚めたのは病室だった。
 意識が戻って一番最初に思ったのが、帽子のこと。「もしかして禿のまま?」って。帽子はかぶせてもらっていて、大丈夫だった(苦笑)。そして「腰が痛い」「暑い」だった。それで、意識朦朧としながらも「腰が痛い」と声に出したら、義理の姉がすぐさま体を斜めにしてくれ、腰にタオルか何かをあてがってくれた。「暑い」と訴えたら、次に足の先を布団から少し出してくれた。意識を戻した際に、私の病室にいたのは、S吾と妹と、義理の姉と姪っ子、甥っ子。意識が戻った際に義理の姉や甥っ子の声が聞こえ「あ、みんな、来たんだ」なんて思ったのだ。とにかく全身麻酔が効いていて、意識は戻って周りの音は聞こえても、目を殆ど開けられず、話したいのに話せないという状態だった。何とか力を振り絞って「腰が痛い」「暑い」と訴えたという状態。義理の姉は看護師なので、行動は的確で素早く、私は本当に助かったのだが、病院の看護師が入ってきて、足を出した状態がまずかったのか「まだ33、4度なので、低体温なのよ」と言って(いるように聞こえ)、布団を掛け直された。手術台に乗ってから、そんなに時間が経っていないはずなのだが、麻酔が掛かった状態の体というのは、多分全体重が腰に来るのかもしれない。乳がんの診断を受けて一番の不安が「私の腰、大丈夫か」ということだった。そして、目覚めた瞬間「腰が痛い」となった。また、私は普段から布団から足をちょこっと出すのが気持ちよく、全身くるまる状態には恐怖心があるのだが、意識が朦朧としても、苦痛は苦痛で、多分「暑い」と感じたんだろう。
 術後に主治医から手術の説明を受けてきた夫と母が戻ってきたら、病室が賑わったようだった。相変わらず、音だけは聞こえるのだが、私だけが「カヤの外」状態。耳元で、主治医の説明を母が話してくれたような気がするけど、「うん、うん」と返事するだけで精一杯だったような気がする。そのうち、クリニックの看護師Aさんが来て、やはり何かしら声を掛けてくれたのだ「うん、うん」と肯くだけ。酸素マスクをつけられている状態だったからか、とにかく唇に水分がほしく「喉が渇いた」か「水が欲しい」と声に出したら、Aさんが、水を含ませた綿で唇を拭いてくれた。これまた助かった。Aさんが帰り、そのうち、義理の姉に「じゃ、ayumiさん、帰るね。(義理の)母が『来れなくてごめん』って言っていた」と耳元に声を掛けられ、「いえいえ(気になさらずに)」か「はい」か何かしら返事をしようとしたような(実際はうなずくだけで精一杯だったかも)。どのくらいの時間が経ったかわからないが、Nちゃんのお迎えもあるので、夫とS吾にも帰ってもらった。ずっと意識がある状態なのか寝入ってしまっているのかわからない状態で、母と妹の会話が気になるのに相槌も打てない。マンションの話をしているらしいのだが、聞こえる会話に自分が入っていけないのは苦痛だった。何か声を出したくても出せなくて、やっと出た言葉が「うるさい!」の一言(苦笑)。声の大きさとかじゃないのだ。私のそばで私に関係なく繰り広げられる会話が苦痛だったのか・・・。妹は笑いながら「じゃ、帰るね」と帰っていき、母が一人残った。乳がんの友人から、麻酔が切れた後で吐き気が襲ってくるかもしれないから、一晩誰かに付き添ってもらった方がいいとアドバイスをもらっていたため、そのことを事前に母に伝えていたのだが、吐き気は来なそうな雰囲気、でも唇の乾きだけがどうにも気になって、ずっと声に出せない声を出したのが「水」。そして、母に綿で口を拭いてもらった。今度は酸素マスクが気になり始め、なかなか声を出せなく、しばらくして何とか声を出して「酸素マスクは取れないの?(or取らないの?)」と母に伝え、看護師さんに来てもらって外してもらった。次の一言を話すまでの間がどのくらいかはわからないが、毎回希望を一言発するので精一杯。次に気になったのが、時間。そして、母に帰ってもらいたいという気持ち。誰かがいる以上寝られない気がしてどうしようもなかった。それで「何時?」(確か8時半ごろ)「お母さん、帰って」と伝えたのだ。手術が終わって時間が経っているはずなのに、麻酔の影響で思うように体が動かせない。とにかく意識があって体が全く動けない状態というのは、本当に辛い。また、尿カテーテルがつけられているとはいえ、誰かの前で“する”というのが嫌だ嫌だという思いつつ、ずっと“したい”感じがしているのも嫌なものだった。手も足も何も動かない。話したい時に言葉が出ない。この苦痛をやり過ごすには、寝る(≒意識を失う)しかないと思った。母が帰り、知らない内に寝たようだが、何度か目が覚めて、その度にまだ真っ暗だったのがショックだった。そして体も動かない。あとどのくらい寝たら、朝になるのか・・・次に目が覚めた時・・・朝だった。体も動く。そして爽快感。確か6時台。
無くなった胸を見てもショックはなく―8月20日
 体を起こし、普通に動けるのがこんなに幸せかと、朝からハイテンション♪自分で歩いてナースステーションに行ったか、ナースコールを押したかは思い出せないのだが、とにかく看護師さんに来てもらって、蒸しタオルで体を拭いてもらった。手術して無くなった胸の部分を見たが、「こんな感じになったのか」というぐらいの思い。クリニック出勤前に、看護師Aさんが立ち寄る。手術のこと、呼吸確保のための管挿入の際に手こずって喉を傷めたこと、術後の抗がん剤のことなどの話。そして、ドレーンの管理の仕方と、リハビリの説明。肩まで挙げて、上まで挙げて・・・。術後は患側の腕が上がらないと思っていたのだが、術後1日目は動かせば動くということ。Aさんが病室に出向いてくれるのは、術後1日のこの日まで。手術した病院では、手術とその管理、術後の患者の体調管理がメインで、創部(患部)やリハビリのことは主治医と看護師Aさん(クリニック)。翌日からは、私が病院からクリニックに通院。確か11時頃だったか、夫とS吾と母が来てくれた。朝一でメールして母には、本を持ってきてもらった。自分で持参した『文藝春秋』だけでは時間を持て余しそうだったから。
 ハスキーボイスでしゃべるのも面倒だったし、気持ちだけは充実感があったので、夫とS吾にはさっさと遊びに出掛けてもらい、読書とオリンピック観戦。夕方にまた来てくれたんだと思う。もうこの辺りの記憶はなし。とにかく、声が出ないので、入院中はNちゃんと話す気が起きなかったため、電話せず。
見舞客の対応とオリンピック―8月21日
 朝から元気。看護師に体を拭いてもらったのか、自分で拭いたのか、どちらか。とにかく元気。正直、子育てからも解放されて、非常に気持ちも充実していたように思う。朝ごはんを食べて、普段着に着替え、9時40分頃に病室を出てクリニックへ。徒歩2分。看護師Aさんによる創部のチェックと、ドレーンの排出液のチェック。主治医からは手術の様子と、切除した後のブツの状態の話(病理に出す前に自分たちでも状態を見たらしい)。「もう、どこかに遊びに出てもいいよ。外食したら?病院は暇でしょ。映画でも見てきたら」と、映画観賞を勧められる(病院の目の前が映画館。でも、夏休みは子ども向けばかりで見たい映画はなし)。ランチの外食も考えたけど、おいしいとは思わないけど、せっかく病院食があるんだから病院へ戻った。暇なのでひたすら読書。午後は、母方の叔母2人と、義理の兄のご両親が来てくれた。入院中お見舞いに来たいというのを事前に聞いていたので、この日と時間を指定して、調整していた。なんといっても、3泊なので。私が普段着のままで元気にしているから、みんな拍子抜けの様子。
 夜は、オリンピック・ソフトボールに夢中になった。子どもがいては、普段の夜はテレビなんて見られないので、久しぶりにたっぷりと堪能した。
あっという間の退院―8月22日
 朝から元気。朝ごはんの後、身支度をして退院の準備。夫に「下着を持ってきてほしい」と頼んでいたのに、洗濯したパジャマを持ってくるというマヌケなことを。帰国して数日、Nちゃんの保育園の送り迎えに、日中はS吾と目一杯遊びつつ、また赴任地に戻る準備をしているので、私の話(要望)を聞き洩らすことも理解できないわけではないが、退院する日にパジャマ持って来てどうする!ってな感じで、呆れてしまった。ナースステーションに渡すためにお礼の品を持って来てもらったが、退院しようと病室を出ても、昼の準備か何かで看護師全員が忙しく、私の世話をしてくれた人に会えない。ナースステーションも空っぽで・・・何とか渡したのだが、私みたいなケース(手術だけ利用の患者)はそんなに気を使わなくてもよかったのかもしれない。小さな病院で、入院日数が短くて。他の入院患者とは洗面で何人かに会ったぐらい。あっという間に退院。
 夫に荷物を渡し、先に帰ってもらい、私はクリニックに通院。今でもそうだが、生活圏内での出来事なので、普通にテクテク歩いて自宅に向かっていたら、学童ママにばったり。入院前に、周りに掛声を掛けて、声援がいっぱい詰まった応援メッセージを書いて集めて届けてくれたEさん。「あれ、一人?」なんて言って、元気な私の姿を見てびっくりしていた。
 この日、ブログを書いた。⇒http://d.hatena.ne.jp/ayumi_a/20080822/p1
◆術後1年を経て
 乳がん治療での山場は何だったのか。私の場合、手術ではなく、抗がん剤治療だったろう。手術自体は痛い思いは殆どしない。術後1ヶ月間のリハビリが痛くて痛くて、その後の抗がん剤治療での精神的落ち込みがあったし、手術そのものは、ほんと、1つの通過点でしかなかった。でも全摘出したことで、確かに外見は変わった。多少不便は感じる。が、7月の家族旅行では温泉にも入ってきた。どうってことはないわけでもないけど、それほど深刻なことでもない。地元の温泉施設には行く気はない。S吾の学校の女の子にでも会って、その後興味本位でS吾に何か言われたら嫌だから。でも、誰も知らない土地で温泉に入るのは、気にしなければ十分に楽しめるのを知った。Nちゃんも気持ちよさそうに入っていたので、これからも温泉には堂々と入るつもりだ。
 手術して思ったのは、自分のことは大丈夫、ということ。全身麻酔は、S吾の副耳の手術Nちゃんの目の手術で経験していて、親として子どもを手術室に見送るのは本当に不安だったのだが、それがあるからか、自分の時は全身麻酔に対する不安は全くなかったし、やることをやれば、コトは終わるというのもわかっていたので平常心でいられた。まさか、手術台に乗っても、何か冗談を言わなくちゃと思ってしまう自分には笑ってしまったが。でも、その後の麻酔が完全に抜けるまでの辛さは、上に書いたとおり。また、術後の口内炎はひどかったので、自分自身では気づかないうちに平常心を装っていたかもしれないのも事実。経験しなくてもいい経験だが、経験しないとわからないものはわからないものだ、と。術後1年経って色々思い出しているうちに、「今度手術するときは、看護側には、個人の事情は事前に絶対に伝えておこう。短時間でも腰痛への対処と、低体温でも足を少しでも出させてほしいということだけは伝えよう!」と、鼻息荒くしている私でした(苦笑)。