父の命日、そして新たな副作用出現

 父が亡くなって3年が経った。数日前までは覚えていたのに、さっき母との会話で「そうだった」と、忘れていたことに気付いた。亡くなった後数ヶ月は、情緒不安定な日が多かったが、ふと思うことがあると、心の中で父に語りかけている自分に気付き、生前は電話口で「元気?・・・お母さんに代わって」のような“日常会話”が多かったような気がするから、死んでからの方が身近に感じるものだとしみじみと感じたものだった。それが、最近はあまり“会話”していないことに気付いた。話すことがなくなったのか、それとも子どもの世話やら乳がんやら目の前のことで忙しくして、また前みたいに“何か”がないと話す必要もなくなったのか・・・。まあ、深くは考えないようにしよう。
 とにかく、父の死後「第二子を」と思い、ここにNちゃんがいるんだから、私は「今」と「これから」をもっともっと大切にしたいと思う。亡くなった人を忘れるというのはよくないが、「うっかり」は「うっかり」で許すことに。
 命日であることに気付いたこと(≒忘れたこと)、それ自体、まあショックであったのだが、それ以上に今日は、私が味覚障害という副作用になったことに、かなりショックを受けている。
 22日(月)に抗がん剤(EC療法)の投与を受けた(気になることがあったので、そのことはまたの機会に)。その後数日間安定剤の助けを借りて、私にとっては最悪の副作用(気分の悪さ)をなんとか逃れることができた。この間ブログを書いたら、更に気分が悪くなりそうで避けていた*1。寝倒していたといってもいいだろう(でも保育園の送り迎えは全部自分でやれた)。気分の悪さ自体はつわりに似たものだが、「イメージ付き」というのが違うのだ。投与時に感じたこと、見たことを思い出し、その時には感じていなくても、イメージしたこと全てが気分の悪さを引き起こすものになってしまうのだ。なんといっても、においが敏感に。におい付きのイメージが、それと近いようなにおいを感じると、その感じた場面も追加され、悪のスパイラルループに。ここ数日は「数%の違いなら(再発率等)、もうECはやりたくない」と嘆いていた。副作用はそんなにひどいはずじゃないのに(気分は悪くても吐くことはない)、どうしてもそう思ってしまう私は「かなりヘタレ」と・・・*2。でも、「そろそろ大丈夫なはず」と、昨日から日中は安定剤を飲まないことにし、昨日も今日も日中元気に動くことができた。何か舌は変な気がするけど、それほど気分も悪くない、やっとしんどい数日間をやり過ごすことができたから、来週は少しはまともに動けるだろうと思っていたら・・・。
 で、今日。朝から飲んだもの全てが「超まずい」ものばかりで「全く嫌になっちゃう」とぼやいていた。夕食時も、S吾に「この麦茶、まずい」と言ったら「いつもと同じ味だよ」と。その時点で、「嗚呼〜」と、やっと自分が味覚障害になっていることに気付いたのだ。なりたくなかったな、この副作用。「私は副作用が軽い」と思っていたけど、なかなか思うようにはいかないものだ。術前の約4ヶ月の抗がん剤治療中にはならなかった副作用なのに・・・。昨日までの味、今度はいつ感じることができるのか・・・。今日はまだ飲み物だけにしか違和感を感じなかったが、固形物に対する味はどうだろう・・・。今日、友人からメロンをもらったのに・・・。親戚から送られてきた梨も、まだ食していないのに・・・。

*1:今(ブログに)「気分の悪さ」と書いても気分が悪くならないので、「投与後数日間の気分の悪さ」という副作用からは脱した、と確証。

*2:どう思い出しても、つわりの方が長いし、もう少ししんどかった気がするのだが、でもやらなくていいものならECをやりたくない!でも、これも過ぎ去れば、今の気持ちも忘れるのかもね。実際、4〜5月の2回の投与時のつらさは忘れかけていたし。