心身ともに上向き傾向!

 この2日間の体調がよく、朝からコメント返しができました!すごい充実感!(すべて短くてごめんなさい!)

【記録】
 3月30日に入院したので、もう1ヶ月になります。3月22日の夜から左下腹部に軽い腹痛を感じ始めたのが最初*1。30日は休んでも痛みが取れない、数時間前には食べられたのに、夕食が一口も入らない、「あれ?痛みが若干強くなってきている。何か起きる前に病院に行ってこよう」と、夜間急患としていつもの大学病院に行きました。CTから腹部に何か穴のような空間があり(「めずらしいものだ」と)、ただのガスか膿があるようだ、との当直医の診断。とにかく1泊していきますか、とのことで、ERの病室に泊まったのです。でも、夜中寝ていると、突然に腹部じゃなく体の中、上半身から燃えるような爆発があり、顎にまで爆発が来て、ナースコール。「何か爆発しました!」と。全身の痛みが始まり・・・でもずっと様子見で、翌朝、いつもの呼吸器外科の主治医M先生が来て、治療検討が始まった。エコーを当てたら、前日夜のCTの様子と体内が変わっている、とのことで(「先生、体の中、何か爆発した」と伝えた)、激痛の中再びCT。検討が長引きながら、循環器の先生や外科部長も来て、心臓ぎりぎりまで、管を入れる検討が始まった。とにかく胃に穴が開いた。そこから漏れ出したガスや水分がどこにあるか。そして胸水も溜まっている。腹部も胃も腫れている様子(打診)。激痛に耐え抜いた後のボーとした頭で、「先生、開腹したら私は死ぬから、それはだめです」と伝える。家族は誰もこの時点の私の状態を知らない。リスクの高い処置を取るため、医者から夫に電話。息子を連れて夫が駈けつける。夫が遅いからと、私はとりあえず処置の同意書にサインを書いておく。「先生、心膜に水が溜まっているの?」「心タンポナーゼ?」と聞いたら、「多分違うと思う」と。どのくらい経ったか、夫と息子が到着。もしかして最後の別れになる可能性もあるからと、息子と話す。「でも、おかあさん、しぶといから、大丈夫」「がんばるのは先生だから、先生に『がんばって』って言って」と。鼻に管を入れ、胃の内容物を抜く。次、局痲で、左胸の心膜にまでドレーンを入れてもらい(「いつもより、大きく穴を開けるからね」「はい」と会話)、トロッカーにガスが抜け、水が抜ける。次、胃の内視鏡をと、鼻から管を突っ込まれる。「胃潰瘍の痕が見られる。穴はふさがってるようだ」と(後から夫に聞いたのかな???)。ただ、次どこに爆発が起きるかわからない(腹部?)から、2日間が山場だから泊っていくようにと、夫は説明を受けたようだ。診断は腹膜炎と胃破裂、もちろん胸水も。穴が開いたのが食道であったら、90%は駄目だったろうけど、胃だったので何とかなった、との話。とにかく、絶飲食で点滴(輸液・抗生剤?)での生活がスタート。心肺の状態と、他に爆発があるかとの闘い。数日後、モルヒネ投与の話が出る。やはりうまくいかない場合もある、と夫が病棟医から説明を受け、24時間付きっきり。心肺の異常に耐え抜くのと、夫への憎悪心でいっぱい(付添いじゃなく、子ども達のそばにいてほしかった。理解してもらえなかった)。幻覚・幻聴・せん妄との闘い。訳がわからないけど、独り言ばかり(目をつむるとそうなってしまう自分が怖かった)。胸水との闘いでもあるので、利尿剤で体から毎日3L抜ける。体力がどんどん奪われて行くのを実感。これ以上、これが続くと、私は日常に戻れないのではとの恐怖との闘い。これが10日か2週間の話。

*1:関係あるかわからないが、「患者」と「患者の配偶者」の間のことで、ストレスが溜まり過ぎて、そろそろ吐き出さないといけないレベルに達した時に、東日本大震災が起きました。そして、震災から10日ぐらい経ったある朝から毎日目覚めるたびに涙が止まらなく、「これは鬱かも」と自覚できました。3年前の乳がん発覚から鬱にはならなかったのに・・・