突然襲った危機 −その日にあったこと−

 心配をお掛けましたm(._.)m前記事は大きな危機を脱した直後に書いたものです。今回の記事はその日に起きたことを書きます。念を押しますが、一昨日(月曜)に、今回の入院が「不幸中の幸い」に転じました。そのことは、明日以降に書きますので、心配掛け通しの本人が言うのも何なんですが、あまり心配しないでくださいm(._.)m
〜〜〜〜
 金曜の夜、肩凝りっぽいものを感じ、土曜の朝一で痛み止め(ロキソニン)を飲んでも、左の肩甲骨や肩の痛みが強くなり、我慢ならない程になる前に病院に行き、痛み止めの点滴を打ってもらおう、そして「この痛みにはオキシコンチン(麻薬系の痛み止め)が効くはず」と思ったので、処方してもらえれば、また家に戻れるだろうというつもりで病院に来ました。
 点滴に関しては、去年の入院中に3種試したので、初めて診察してもらう医師に「3〜4時間しか効かないけれど、私にはソセゴンが合います」と伝え、外来の簡易ベッド上で小一時間点滴。その間に、オキシコンチンを処方してもらいたいこと、在宅酸素の処方を動作時だけでなく24時間3L持続吸入というように変えてもらいたい旨を説明。処方箋を書いてもらっていたであろう、その時に、ベッド上で苦しくなり始め、そばにいた夫に看護士を呼んでもらい「サチュエーション…」と訴え(指示?)、数値が80数%になっているのを見て、私は全身が動かなくなりました。目も開けられなくなりました。ただ一箇所、心臓部だけが激しく上下し「苦しい」と声を出すだけで精一杯の状態に陥りました。
 意識は失わなかったので、医者が「レントゲン」と指示しているのを聞き、心の中で「こんな時にレントゲンかよー」と思ったり、「私(=心・精神)がパニックに陥ったら自滅する!」と自分に言い聞かせ、呼吸を整えようと思ったりしました。でも全くコントロールできず…。看護士が夫に「点滴の代謝が進めば落ち着きますよ」みたいなことを言っているのを聞いて「そうだ、これはその内収まるはず!」と言い聞かせ、「こんなことで、死んでたまるものか!」「まだ子ども達に手紙を書いてないじゃないか、絶対死ねない!」と言い聞かせ…。体は全身虚脱、相変わらず心臓辺りだけは激しく動いている…。夫が励ましてくれていたので、「大丈夫。死なない」と答えた気がします。
 レントゲンの結果、左肺が完全に潰されているとか、心臓が圧迫され、それが右胸にまで押し出しているだとか、そんな話が聞こえ、夫が最悪の事態になるのか医者に聞いていたような…(で、医者に呼ばれ私のそばを離れたような気配…)。
 ERに運ばれた頃には、夫の「死ぬなよ」という声掛けに、「大丈夫、私は死なない」と何度か答えたような気がします。「みんなが来るから」と言われた気がして、どのぐらい経った頃か、義姉とS吾がいました。夫のその日の記録(メモ)によると、ERに入ってからは呼吸が落ち着いてきたようです。年末から夫婦間の懸案事項だった、S吾への「命の期限の告知」をしました。S吾は私が癌(再発)であることは知っているけれど、一方で私が苦しさを訴えているのは気胸だからだと思い込んでいる節がありました。だから、具体的に左胸を指し「ここに癌が一杯あるの」とか、「お母さんは、早く死ぬかもしれないから。でも、死んでも天国からずっとS吾を見ているから大丈夫だよ」等と話をしました。「でもね、まだ死なないから。まあ、Wiiはできないかも(笑)」と。義姉は、私がS吾の手をしっかり握った瞬間に、その場を離れてくれたので、二人きりで話ができました。
 その後、実家の母や兄、妹が来てくれたんだけど、疲れ切っていて「ごめんね」「死ぬかと思ったよ」「S吾には話したから」とフォローを頼むだけで精一杯でした。妹には「何かあったら、blogとmixiをよろしく」と…。
 夜には呼吸が楽になったし、医者や看護士の質問にも答えられるようになったけど、全身の疲労感というか虚脱感は相当なもので、食事は取れず、薬を飲むだけで精一杯でした。外来で診察してくれた医師から「胸の圧迫感を取るために、点滴に微量の麻薬を入れて落としてみましょうか」と提案されたけれど、投薬の点滴に恐怖感があり、断りました。去年入院した病棟の外科医が来て「CTを撮ってみようか。水があるかもしれないから」と提案されたけれど、「今更撮っても仕方がないんじゃないですか」と答え、断りました。夜になり、主治医ではない乳腺外科の先生が顔を出してくれ、「先生、死ぬかと思いましたよ」と伝えたら、いつもの落ち着いた感じで「月曜にはK先生(主治医)が来るから」と…。酸素マスク(5L吸入)で就寝。