1月末にサバイブした時、何度も読みなおした詩

 1月末「死なないですんだ」と思った時、携帯のテキストメモに保存しておいた詩を何度も読んで、病院のベッドの上で過ごしていた。自分の命の存続と子どもへのメッセージしか考えていなかった頃。日本中がサッカーで沸き立っていたことを全く知らなかった頃。
 退院して、家のベッドに横になっていた時も、読みなおした。
 今日、久しぶりに読みたくなった。ここに書きたくなった。

『くまさん』 まど・みちお 
 はるが きて
 めが さめて
 くまさん ぼんやり かんがえた
 さいているのは たんぽぽだが
 ええと ぼくは だれだっけ
 だれだっけ


 はるが きて
 めが さめて
 くまさん ぼんやり かわに きた
 みずに うつった いいかお みて
 そうだ ぼくは くまだった
 よかったな

ここ、伝言板にご利用ください!

 被災地のみなさん、本当に耐えてください。1人でも多く生き残ってください。周りの人と助け合って、生き残ってください!
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 千葉県北西部の我が家家族は無事です。実家(北関東)の母も、勤め先の保育園も保育園児も職員も無事でした。電気の復旧が遅く、連絡が取れませんでした。3世帯住居、都内から徒歩で5時間以上かけて歩いて帰ってきた義姉、都内に通勤・通学していた義兄、姪っ子、甥っ子も職場・学校で一夜を過ごし、今日お昼過ぎに徐々に帰宅してきました。ご心配してくださった方、ありがとうございます。
 退院してから精神的に色々あり、なかなかブログをアップできなかったのですが、今、私にできることは、いざという時のために体力を温存し、体調を悪化させないことだと思って、できるだけ休むようにしています。何かあったら、広域避難場所に移動するぐらいは歩かなければいけません。酸素ボンベをガラガラ引きずっていくぐらい、元気でなければいけません。また、昨日から利尿剤を飲んでいなくて(トイレの回数を減らしたくて)、気合いで胸水が増えないようにしています(?)。(あとは・・・月曜に、診察を受け、抗がん剤をもらってこなければいけません・・・)
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 私が現在所属している大学院のS.Yゼミ生も全員無事です。私のリアル友、無事だと信じています。ブログ友、無事だと信じています。ずっと応援している仙台在住のTHE YOUTHのメンバー&家族、ファンのみんな、無事だと信じています。
 でも、やはり友人・知人の安否が知りたいと思います。このブログが相変わらずアクセス数が多いので、フォロワーが少ないtwitterで情報流すより、このブログを利用したらいいと思いつきました。リアル友、ブログ友、もしこれを読んだら「無事だよ」とコメントを書いてください!そしてお互い、安心しあいましょう。「憂慮」は心身を消耗させます。
 病人の私にできることは何かわかりません。コメント欄を利用してもらうこと、随時この記事の下に、安定的な情報を掲載していければと思っています。
 【利用してください】 *できるだけ追記していきます。 

  • 多文化共生センターがまとめた多言語による地震情報提供サイト http://ht.ly/4cW23
  • twitter各地域情報―ハッシュタグで情報提供&収集を!
    • 宮城 #save_miyagi 福島 #save_fukushima 山形 #save_yamagata 青森 #save_aomori 秋田 #save_akita 岩手 #save_iwate 茨城 #save_ibaraki
    • その他、地域名で・・・#ibaraki、#mitoなど地名でも
  • twitter地震に特化した情報
    • 地震一般に関する情報 #jishin 救助要請 #j_j_helpme 避難 #hinan 安否確認 #anpi 医療系被災者支援情報 #311care
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    • 産婦人科 #gynER 精神 #jishin_kusuri 難病・免疫 #311nan 小児 #PedER がん #ganER

一昨日、退院してきました♪

 またまたご無沙汰してしまい、ご心配お掛けしております。
 アクセス数が多く「あー、心配している人が多いのに・・・」と、わかってはいたけれど・・・。治療(癒着)が過去2回の経験値が生かされなかったこと(高熱ではなく一番嫌いな心臓バクバクがひどかった!←左胸には心臓があったのだった!!)、治療の結果、前回の記事の時より肺が若干(?)縮んでしまい凹んでしまったこと、治療が終わった途端、一気に疲れた出てしまい、ベッドの空きもあったので、子どもたちがいる3連休には退院せず、少し長く入院させてもらいました。窓際のベッドから雪を見ながら、「この1ヶ月の経験は何だったんだろう・・・」と、ぼーと過ごしていました。
 とはいうものの、退院日(2/14)は元々予約していた外来の診察も受け、病室で処方箋が出るのを待っているだけでもかなり疲れ、帰宅したらしたでNちゃんが喜んでいることをいいことに、狭いベッドで2人で寝てしまい、昨日の朝起きた時には、またまた疲れておりました・・・(苦笑)。だからなのか、食事時と、訪問看護師の初回訪問を受けている時間以外、ほとんどベッドに横になってグースカ寝ていました。数日前から抗がん剤・ゼローダの副作用で下痢気味になりだし、利尿剤も飲んでいることで、それも体力消耗に貢献しているのかもしれませんが、夕食後から深夜の2時半までぐっすり寝てしまい、やっと深夜に起きて歯磨きして、再度寝たりして・・・。
 結局のところ、胸水は6L抜けました。前回の記事の時点で、すたすた歩けると書きましたが、肺が縮んでしまったからか、すたすたは歩けません。左肺の治療をしただけだけど、終わってみれば右肺も違和感たっぷりで、恐ろしくてあまり体(上半身)を動かしていません・・・(涙)。右側の鎖骨下あたりの肋骨(か、その周辺の軟骨)に違和感があり、呼吸のたびにポキポキなります・・・。精神的には、前回の記事との落差が結構あります。まあ、癒着をすれば、当分は水が溜まるということもなく、しばらくは(?)呼吸困難に陥ることはないはずなので、折り合いをつけなければいけません。癌治療は、賭けの部分が結構あるので、私は自分で納得した治療を受けているのですから。でも、在宅では酸素なしで動けそうです。
 人は本当に欲張りです。1ヶ月前まで「とにかく家で過ごせればいい」「生きていれさえばいい」と考えていたのに、一気に呼吸苦から解放されると(前回の記事の時点)、「Nちゃんと手をつないで散歩できる!」「Nちゃんを美容院に連れていける!」「4月から小学校の読み聞かせボランティアに復活できるかも!」などと、何でもできることを思い描き、癒着の治療後は「もしかして、できないのかな・・・?」という不安を感じた途端、涙して・・・。ああ、でも、欲張らなければ、入院前より楽にはなっているはずなので、『できること』が増えるはずなのです。もう無理かと思っていた、実家への帰省と家族旅行は、3月に実行したいと思います。これは、本当にできる自信があるので、嬉しいです。
 これからは、予約外で病院に駆け込むことも少なくなると思います。目指すは「予約日まで駆け込まない!」です(爆)。でも、週1回の訪問看護を受けて、肺の音などを聞いてもらいます。うーん、本当、生き続けるためにはお金が掛かりますね・・・。
 そうそう、よく聞かれること。「それだけ水が抜けたんだから、体重も減った?」に対する答え。正月1回目の記事に「年末年始太りしてしまった」と書いたけれど、あれは水が増えた分だと思われます。呼吸苦からそれ程食事量を取っていなかったのに、増えるのはやっぱり変ですよね(苦笑)。昨日の朝、同じ条件で体重計に乗ってみました。結果、正月の時点から、3キロ減っていました。6L抜けたからといって、6キロ近く減るもんではないですね〜(笑)。
 少しずつ体力を戻しつつ、ぼちぼち日常を取り戻していかなければいけませんね。研究も再開したいと思います。
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 みなさんのコメントに、本当に励まされました。少しずつレスしていきたいと思います。
 突撃も含めて、何人もの友人のお見舞い(訪問)を受けました。やはりおしゃべりは楽しいです。またお見舞いの品もいただきました。ありがとう。恩返しができるように・・・精一杯生きたいと思います!

「奇跡が起きました」と書きたい展開に −呼吸苦からの解放−

 本当に心配している方が多いとわかっているのに、いいニュースを今日まで報告せずに、ごめんなさい!とにかく、前々回と前回の記事は、どうしても忘れられない出来事で、それを形にしてから、そしていいニュースはゼミの先生に報告(メール)してから、ブログを書こうと思っていました。(そして、携帯画面に長文を書く行為は自分の思考スピードと合わなくて・・・昨日やっとインターネットができるテレビに小型キーボードを設置してもらいました。)
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 先週月曜(1/24)に、初めて会う病棟医から再びCT撮影を勧められた。やはり私は「撮っても仕方がないんじゃないですか」と答えてしまった。「CTは痛くも痒くもないでしょう」と言われ、「それもそうだ」と思い、結局CTを撮ることに。撮影後「呼吸器外科に検討してもらうから」と言われ・・・。お昼頃だったか、乳腺外科の主治医が来たので「先生、もう死にそうだったんです!」と明るく言うと「本人が言うなよ」と。「今、外来の途中だから、また来るから」と。午後3時頃、呼吸器外科の主治医M先生が来て「水が抜けるかも」と。若手の病棟医数人と看護師に囲まれ、去年2回穴を開けた辺りにグサっとドレーンを挿入。「今までで一番痛いです!!」と、何度も何度も「いたーい!」と声を上げてしまう。ドレーン挿入が終わって、体を起こすと、左脇からは真っ黒い管が・・・。その時点で1,070ml排出でクランプ(排出を止める)。「ああ、末期症状の象徴、どす黒い血だ・・・」と。しかし、一気に胸の圧迫感が抜け、呼吸が楽に。夜、外来が終わってから乳腺外科の主治医が来たので「先生、ほら、末期症状のどす黒い血ですよ」と、トロッカーを指差す。(私は何でこうも、明るく他人事のように言うのか・・・)
 翌日1,000ml、その翌日870ml・・・金曜(1/28)までに約3,600ml抜けた。再度CT撮影。看護師もCTの技師も「すごーい、別人みたい!」と。夜、病棟医にCT画像を見せてもらった。「これが月曜日、こっちが今日の」と。「あのー、半分以上というか4分の3ぐらい埋まっていると言われてきたしこりはどれですか?」と聞いたら、「そんなものはないよ。ここら辺、胸壁に肉厚の部分があるけど」と・・・。なんと、臨床豊富な乳腺外科医も呼吸器外科医も(呼吸器内科医も?)“固形癌(しこり)”と診断していたのは、そのどす黒い血の塊だったのです!土曜にER病棟から外科病棟に移り、呼吸器外科の主治医が来て「まだ抜けそうだから」と、管を9cm外にずらし・・・火曜日の今日までで(9日間)、なんと約5,000mlの胸水(まあ、血ですが)が抜けたのです。
 私は1日1日と体力が回復していくと同時に、かなり早い段階で、酸素マスク(5L吸入)から酸素チューブへ、そして何もなしでサチュエーションが98%に・・・。そして今は、普通のスピードで食事も薬飲みもでき、すたすたとトイレに歩いていき、下に落ちたゴミもさっと拾うことができる状態に。もちろん、全く息が上がることはなく・・・。そして肺に気遣うことがなく、大笑いができるように。
 年明けから、日ごと苦しさが増し、息絶え絶えに身辺整理をしてきたのは何だったのだろうか・・・。『余命』って何なんだろう・・・。そんな心境で、ここ数日を過ごしていました。
 とにかく、死にかけて命拾いをしたのは確かです。呼吸困難に陥ったのは、たまたま病院で、そしてたまたまベッドの上でした。これは本当にラッキーです。どこかで立った状態で倒れていたら、呼吸困難で死ぬ可能性だけでなく、頭部にダメージがあって死に至っていたかもしれない。そして、(推測ですが)救命の観点から抜けそうな水があったら抜こうと、外科医たちが考えてくれたからです。で、「抜けてみて初めて(しこりじゃないと)わかった」と(呼吸器外科医)。「私の命は、あと何週間持つのだろう」と思いながらも、嘆いている暇もないぐらい身辺整理を急がせた犯人は、固形癌と見分けるのが難しいぐらいのどす黒い血の塊。左肺を押しつぶし、心臓も多少縮小させながら右肺へ押し出していたのは、約5Lの血(血胸)。
 数ヶ月つぶされていたのにも関わらず、左肺はほぼ膨らむことができたようだ。今日の夕方、乳腺外科の主治医が来て「(今日の)CT、別人のようだよ。明日、M(先生)が癒着やるってさ」と。そう、明日、癒着術を行う。去年右肺の気胸で2度経験したピシバニールという薬品を左胸腔内に注入する。胸水が溜まったらドレーンを入れて抜く方法もあるが、呼吸器外科の主治医M先生の「右肺があまり水が溜まらないのは癒着したおかげだから、(癒着術は)効果があると思う」という言葉を信じる。高熱が1週間ぐらい続くのも受け入れる。
 あー、書きたいことは一杯ある。在宅療養支援室のソーシャルワーカーとの面談(「最期はどこで迎えたいか?」など)のこと。なぜ私が、こんな状況でも「明るい」「強い」「前向き」と言われるのか。もう、消灯時間が過ぎ、キーボードを打ち続けるのは周りの患者に迷惑なので、今回は、この辺で。
 とにかく、ブログを読んでくれているみなさまに報告したいです。「私は、まだ生き続けていいみたいです!」
 病室で、医者や看護師相手に、「あと、2、3年生きそうですよ」と、ガハハ、ワハハと笑い続けている私。本当にみなさまの応援に感謝しています!
 

終末期をどう過ごしたいか

 前回の記事は、先週土曜(1/22)に、疼痛コントロールのために外来を受診しに来たはずが、突然襲われた「死にかけた」状況を書きました。忘れてしまう前に、その翌日に看護士と「終末期をどう過ごしたいか」について話し合いが持たれたことを書きたいと思います。
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 外科病棟にベッドの空きがなく、ERの大部屋で一夜を過ごした。朝一に夫が来て「死んでいなくてよかった〜(涙)」と。「(夜間)死にそうになったら、電話いくよ」と、相変わらずの減らず口の私。朝ご飯は少し食べられたけれど、前日の疲れや、相変わらずの胸の圧迫感は相当なもの。前日は殆ど体を動かせなかったけれど、徐々に足を動かす様子を見て、夫が喜んでいた。手足を動かせるようになっても、全身の疲労感はなかなか拭えず、午前中はウトウト。お昼頃に母とS吾が来たので、再び「お母さんは、S吾が6年生になる前に死ぬかもしれない」等と話す。妹も来てくれた。午後3時頃、研究仲間のTさんが見舞いに来てくれた。顔を見た瞬間、「もう死ぬかと思ったよ〜」と泣いてしまった。私の状況を話した後は、Tさんの仕事の話や和太鼓の話をしたり。確か「私はなかなか死なないよ」とか「Iちゃんの結婚式もあるし、2月半ばにはHMとBちゃんの博論発表会もあるし、そんな時に死んでいられないよ」とかも。私が疲れ始めた様子を見て、帰ることに。
 そんな1日の中、私にとって“軽いショック”を覚えた出来事が…。看護士から、自宅に戻る、つまり在宅で終末期をどのように過ごしたいかの話の時間を持ちたい、と。「あー、もうそんな状態なんだよなー、私は」と思っただけで、自分の体の状態を考えると素直に受け入れられた。が、自宅に戻ったら、ベッド脇にポータブルトイレを置いて…と考えていたのに(年明けから「そろそろほしい」と考えていた)、看護士Iさんから、「今のように(尿導)カテーテルを入れて過ごすということもできます」「なるべく心臓と肺に負担のないようにすることが、1日でも長く生きられる方法です」等という話を聞いて、「私の心臓の鼓動は、有限が確定した、あー、カウントダウンが始まったってこと?」と心の中でつぶやいてしまった。夫が介護認定を申請していることや、介護休暇を取るつもりでいることを話す。看護士Iさんからは、病院の在宅療養支援室のソーシャルワーカーと面談のセッティングをしましょうという提案。
 何というか、「いよいよだな」と、覚悟を迫られた日となった。
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 前回と今回の記事は、携帯のテキストメモに書き出して、携帯でネット接続してコピペしています。入院して1週間目の今日、やっと外科病棟に移りました。これからはネットが出来るテレビがある生活になります。明日夫が小型キーボードを持ってくるはずです。携帯でまとまった文章を書くのは、非常に難しいのを実感しています。
 次回の記事は、今度こそ、今回の入院(=死にかけたこと)が「不幸中の幸い」となったこと、乳腺外科の主治医が常々「癌は何が起こるかわからない」と言っていたことの、本当にそんなことが起こったこと(現在進行形)を書きます。

突然襲った危機 −その日にあったこと−

 心配をお掛けましたm(._.)m前記事は大きな危機を脱した直後に書いたものです。今回の記事はその日に起きたことを書きます。念を押しますが、一昨日(月曜)に、今回の入院が「不幸中の幸い」に転じました。そのことは、明日以降に書きますので、心配掛け通しの本人が言うのも何なんですが、あまり心配しないでくださいm(._.)m
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 金曜の夜、肩凝りっぽいものを感じ、土曜の朝一で痛み止め(ロキソニン)を飲んでも、左の肩甲骨や肩の痛みが強くなり、我慢ならない程になる前に病院に行き、痛み止めの点滴を打ってもらおう、そして「この痛みにはオキシコンチン(麻薬系の痛み止め)が効くはず」と思ったので、処方してもらえれば、また家に戻れるだろうというつもりで病院に来ました。
 点滴に関しては、去年の入院中に3種試したので、初めて診察してもらう医師に「3〜4時間しか効かないけれど、私にはソセゴンが合います」と伝え、外来の簡易ベッド上で小一時間点滴。その間に、オキシコンチンを処方してもらいたいこと、在宅酸素の処方を動作時だけでなく24時間3L持続吸入というように変えてもらいたい旨を説明。処方箋を書いてもらっていたであろう、その時に、ベッド上で苦しくなり始め、そばにいた夫に看護士を呼んでもらい「サチュエーション…」と訴え(指示?)、数値が80数%になっているのを見て、私は全身が動かなくなりました。目も開けられなくなりました。ただ一箇所、心臓部だけが激しく上下し「苦しい」と声を出すだけで精一杯の状態に陥りました。
 意識は失わなかったので、医者が「レントゲン」と指示しているのを聞き、心の中で「こんな時にレントゲンかよー」と思ったり、「私(=心・精神)がパニックに陥ったら自滅する!」と自分に言い聞かせ、呼吸を整えようと思ったりしました。でも全くコントロールできず…。看護士が夫に「点滴の代謝が進めば落ち着きますよ」みたいなことを言っているのを聞いて「そうだ、これはその内収まるはず!」と言い聞かせ、「こんなことで、死んでたまるものか!」「まだ子ども達に手紙を書いてないじゃないか、絶対死ねない!」と言い聞かせ…。体は全身虚脱、相変わらず心臓辺りだけは激しく動いている…。夫が励ましてくれていたので、「大丈夫。死なない」と答えた気がします。
 レントゲンの結果、左肺が完全に潰されているとか、心臓が圧迫され、それが右胸にまで押し出しているだとか、そんな話が聞こえ、夫が最悪の事態になるのか医者に聞いていたような…(で、医者に呼ばれ私のそばを離れたような気配…)。
 ERに運ばれた頃には、夫の「死ぬなよ」という声掛けに、「大丈夫、私は死なない」と何度か答えたような気がします。「みんなが来るから」と言われた気がして、どのぐらい経った頃か、義姉とS吾がいました。夫のその日の記録(メモ)によると、ERに入ってからは呼吸が落ち着いてきたようです。年末から夫婦間の懸案事項だった、S吾への「命の期限の告知」をしました。S吾は私が癌(再発)であることは知っているけれど、一方で私が苦しさを訴えているのは気胸だからだと思い込んでいる節がありました。だから、具体的に左胸を指し「ここに癌が一杯あるの」とか、「お母さんは、早く死ぬかもしれないから。でも、死んでも天国からずっとS吾を見ているから大丈夫だよ」等と話をしました。「でもね、まだ死なないから。まあ、Wiiはできないかも(笑)」と。義姉は、私がS吾の手をしっかり握った瞬間に、その場を離れてくれたので、二人きりで話ができました。
 その後、実家の母や兄、妹が来てくれたんだけど、疲れ切っていて「ごめんね」「死ぬかと思ったよ」「S吾には話したから」とフォローを頼むだけで精一杯でした。妹には「何かあったら、blogとmixiをよろしく」と…。
 夜には呼吸が楽になったし、医者や看護士の質問にも答えられるようになったけど、全身の疲労感というか虚脱感は相当なもので、食事は取れず、薬を飲むだけで精一杯でした。外来で診察してくれた医師から「胸の圧迫感を取るために、点滴に微量の麻薬を入れて落としてみましょうか」と提案されたけれど、投薬の点滴に恐怖感があり、断りました。去年入院した病棟の外科医が来て「CTを撮ってみようか。水があるかもしれないから」と提案されたけれど、「今更撮っても仕方がないんじゃないですか」と答え、断りました。夜になり、主治医ではない乳腺外科の先生が顔を出してくれ、「先生、死ぬかと思いましたよ」と伝えたら、いつもの落ち着いた感じで「月曜にはK先生(主治医)が来るから」と…。酸素マスク(5L吸入)で就寝。